定年で変わったこと

定年で変わったこと

 

昨年定年となった。基礎疾患があること、しかし金銭的に厳しいので再任用で働くことにした。勤務時間は1週間に19時間。現状では月曜日と火曜日が1日。水曜日が半日。木曜と金曜はお休み。

 

もう担任はやりたくない

一番考えたことは、もう担任を持ちたくないということ。常勤講師なら担任の可能性もある。担任なら通知表を書くことも懇談会もやらなければいけない。勤務時間内に終わらせることは難しいので家に持ち帰ることもなる。

 

授業だけ考える

現在、小学校の日本語教室を3人で担当している。一人は常勤だがもう一人は私と同じ再任用で週の半分しか来ない。外国にルーツをもつ子供たちが1日に1時間ほどやってくる。教科書はない。明確なカリキュラムもない。子供たちの日本語能力は同じ3年生でも日本に来た時期や家庭環境でかなり違っている。一人一人に対応していかなければならないという点では特別支援と似ている。

 

何もやることがない夏休み

家にいても電気代と有給を消費してしまうだけ。

夏休みといっても勤務がないわけではない。勤務はあるが決められた仕事がない状態。プール指導も入っていない。2学期の教材の準備くらいしかやることがない。国語の教科書をやさしい日本語に直して外国にルーツを持つ子供たちに理解できるようにと考えたが、そんなに簡単に書き直すことができるわけでもない。

結局は今まで読もうと思っていた本を持ってきたり、机上の整頓をしたりして過ごしている。また「サピエンス全史」も興味があったので読み始める。インプットも大事だが、読んだ内容をアウトプットすることも必要。「何のために読むのか」と考えてしまうと意欲が削がれてしまうので、できるだけ考えないようにする。

 

ブログだけでなくTwitterも始めた。少しでも自分の考えを残すことができればと考えている。

定年で変わったこと

定年で変わったこと

 

昨年定年となった。基礎疾患があること、しかし金銭的に厳しいので再任用で働くことにした。勤務時間は1週間に19時間。現状では月曜日と火曜日が1日。水曜日が半日。木曜と金曜はお休み。

 

もう担任はやりたくない

一番考えたことは、もう担任を持ちたくないということ。常勤講師なら担任の可能性もある。担任なら通知表を書くことも懇談会もやらなければいけない。勤務時間内に終わらせることは難しいので家に持ち帰ることもなる。

 

授業だけ考える

現在、小学校の日本語教室を3人で担当している。一人は常勤だがもう一人は私と同じ再任用で週の半分しか来ない。外国にルーツをもつ子供たちが1日に1時間ほどやってくる。教科書はない。明確なカリキュラムもない。子供たちの日本語能力は同じ3年生でも日本に来た時期や家庭環境でかなり違っている。一人一人に対応していかなければならないという点では特別支援と似ている。

 

何もやることがない夏休み

家にいても電気代と有給を消費してしまうだけ。

夏休みといっても勤務がないわけではない。勤務はあるが決められた仕事がない状態。プール指導も入っていない。2学期の教材の準備くらいしかやることがない。国語の教科書をやさしい日本語に直して外国にルーツを持つ子供たちに理解できるようにと考えたが、そんなに簡単に書き直すことができるわけでもない。

結局は今まで読もうと思っていた本を持ってきたり、机上の整頓をしたりして過ごしている。また「サピエンス全史」も興味があったので読み始める。インプットも大事だが、読んだ内容をアウトプットすることも必要。「何のために読むのか」と考えてしまうと意欲が削がれてしまうので、できるだけ考えないようにする。

 

ブログだけでなくTwitterも始めた。少しでも自分の考えを残すことができればと考えている。

研究発表が教育をダメにする。

研究発表が教育をダメにする。

 

教員は授業だけしていればいいというわけではない。

 プールの管理やPTAとの付き合いもある。それ以上に面倒なのが研究というものである。数年に1度研究発表というのが回ってくる。

 昨年度はコロナのために研究発表会が行われなかった。しかし、今年度はいくつかの学校が研究発表をすることになっている。今頃は夏休みを返上して指導案を作ったり、その指導案を検討したりしている頃だろう。一部の教員には今までの努力が認められる場となる。しかしその他大勢の教員にとっては負担でしかない。

 

本当はやりたくない研究。

 研究は道徳や国語、総合的学習の時間など教科を決めて取り組むこともある。

指導案を作れば終わりというわけではない。指導案を作ると次は検討会が行われる。指導案通りの授業でこの時間の授業の目的を達成することができるか。時間の配分には問題ないかなど検討をする。

当然子供が帰ってからになる。その分勤務時間が増える。家に帰ってからも指導案のことが頭から離れない。学校にいては落ち着いて仕事ができないので家で考えることになる。合わせて資料作りも始まる。今までの実践で子供がどのように変わったかなど、まとめていく。

 

研究発表で得られること

 強制的に研究に組み入れられる。当日以外にも授業を公開しなければならない。視察という観光旅行に組み入れられることもある。その場合にも授業を公開しなければならない。異動で違う学校に勤めることになれば、その学校での研究に組み入れられる。また参観する方も授業を見て終わり。

 

当たり前のこと

 研究なので仮説と結論がある。この仮説が当然の内容。そして結論も一人の作文を載せて終わりと言ったものが多い。いったい何のための研究なのか。子供のためにはなっていない。

 

 

私たちの責任

私たちの責任

 

教員は魅力のない職業か

 教員の職業はブラックということがかなり定着してきて、採用試験の倍率もかなり下がってきている。本当に教員という職業はブラックなのだろうか。魅力のない職業になってしまったのはそうしてなのか考察していきたい。

 

どうしてブラックになってしまったのか

自分が教員になった40年ほど前から、中学校はもうブラックだった。7時前に学校に着き9時まで学校にいるというのは当たり前だった。部活のために土曜日の午後と日曜日の午前中は潰れてしまった。5月と7月には試合があり、日曜日まで潰れた。それでも、それが当然だと思っていたし、ブラックとは思わなかった。

 

教員の仕事が大きく変化してしまったわけではない。子供相手に授業を行うスタイルは学校ができてから変わっていない。サッカーボールや学級文庫の本など必要な教材があれば、自腹を切ることも時にはあった。

 

授業研究会などで授業をする場合には、通常の授業や学級事務以外に指導案を立てた。必要な教材や関係のある教育書を買うのも自腹だった。1冊の教育書の中で使える部分は数ページということもよくあった。研究会には多少予算もあったが、回ってくることはなかった。

それが当たり前だったし、文句を言うようなこともなかった。

 

研究が学校・教員を壊す

小学校なら余程のことがなければ帰宅が7時を過ぎることはなかった。しかし研究が当たると急に忙しくなる。通常の授業以外に指導案作成。さらに指導案を持って講師になる先生のところへ持っていって指導を受ける。研究発表会が近づけば教室環境の整備。運動場の草取りまで。当然子供への指導は研究に関すること以外手薄になる。

道徳の研究をすれば学級が荒れるとよく言われていた。

 

もう一度当たり前だと思っていたことを見直す必要がある。

小学校における教科担任制を考える。

小学校における教科担任制を考える。

 

 文科省の取り組みには残念ながら一貫性がない。小学校高学年において理科や体育で教科担任制を取り入れるとのこと。メリットとデメリットを考えていきたい。しかし前提として2つ考えたい。

 

教科担任制が教員の授業時間数を減らすこと。

 今でも家庭科や音楽などの教科は教科担任が指導していることが多い。その分は貴重な空き時間となっている。しかし、他のクラスの授業も行うことで空き時間が減ることになっては意味がない。

 

2つ目はその教科の免許を持っている教員、または教員の承諾を得て授業を分担すること。

 小学校では全教科原則教えることになっている。しかし、(中学校の)免許もない、基本的な知識もない教科の授業を受け持つように言われたら精神的なストレスがかなり大きくなる。

 

メリット

 理科や体育では準備の手間が省ける。特に1日で同じ授業を行うことで準備・片付けの手間が省ける。

進度や授業内容を統一することができる。担任(の指導力)による差がなくなる。

 

デメリット

 教科間の連携が取れない。国語で観察・記録文の書き方を学習して理科の観察記録を書く。資料の調べ方を国語で学習する。このようなことが教科担任になることで十分に機能しないことが心配される。

 体育などは、男性教員だから。など教科の得意・不得意があるのに、勝手に教科を決められてしまう。担当時間以外どのような授業を行うのか。非常勤講師で対応するのだろうか。

 

 教科担任は学級をもたずに、担当の教科だけ行うと言うのはまず無理。しかし、担任を持ちながら他の学級も教えると言うのは負担も大きい。また行事などの関係で震度がずれてしまった場合は準備も面倒になる。

 

 なぜ教科担任制にするのか、そのメリットを生かすにはどうしたら良いのか、カリキュラムマネジメントなど、これまでの学習過程と整合性を持たせるにはどうしたら良いのか、教員の意見もしっかり聞いた上で実施するかどうか決めてほしい。

なんのための部活

なんのための部活

部活動の意義って?

部活動の意義はどこにあるのか。平成30年にだされたスポーツ庁の「運動部活動に関する総合的なガイドライン」によると、前文には「学校教育の一環」「教育的意義が大きい」などと書かれている。休日にも学校に呼び、練習をさせることに、教育的な意義があるのだろうか。

 

練習時間と勤務時間

「また平日の活動時間は長くても2時間程度、学校の休業日は3時間程度とし」

ここで問題となるのは、教育の一環と言いながら教員の勤務時間についての理解が全くなされていないこと。ある中学校の日課票をみれば、部活動の開始が16時10分からになっている。それに2時間部活動を行えば18時10分になってしまう。休日の部活動を認めていること。しかし、練習試合に行くことをかんがえれば3時間では終わらないし、大会になれば丸1日かかってしまう。

 

勝つための部活ではない。

 部活の意義から考えたとき、第1の目的は「勝つことではない」。しかし、本当にそうだろうか。運動の技能を高め、より良い人間関係を築くなら休日の練習の必要性はどこにあるのか。

 

教員なら安くできる。休日3時間で2700円

たまたま青森県の部活指導の手当てをみたら3時間で2700円とのこと。時給900円。本来なら時間外手当が必要なのに、その時間数換算は行われていない。

 

教員の善意で成り立っている

「子供のため」という言葉のために、教員が子供に関わって何でもするということが日本の文化のようである。学校の役割分担では部活が明確に位置づけられているのに、手当など考えるときには「教員の善意」つまり好きな教員が勝手にやっているという位置づけなのだろうか

新型コロナのために部活動が短縮されたり、大会が見直されたりするようになった。今まで当然だと思っていたことが、コロナによって立ち止まって考える機会を与えてくれたように思う。部活についてももう一度原点に戻って考える必要があるのではないだろうか。

 

小学校における教科担任制について

小学校における教科担任制について

 

 今日の新聞に小学校の教科担任制の話が載っていた。体育も教科担任となるとのこと。これが中学校のようにうまく機能するだろうか。実際に教員の数を増やさなければ、十分な効果をあげることはできない。

 文科省の考えることだから、制度を変えても人件費を増やすことはないだろう。その理由を考えていきたい。

 

今までの教科担任ではいけないのか

 今までも音楽や家庭科では教科担任でクラスの担任以外の教員が担当することがよくあった。男性教員の場合、音楽の授業は別の教員がやることが多い。また高学年では家庭科の授業も担任以外の教員が行った。そして4時間ほどではあったが、その時間は教材研究やノートの点検などの時間として使うことができた。

 

中学校とは違う

 中学校のように全教科を教科担任で行うこと小学校ではできないのか。まず子供の数に対する教員の数が違う。中学校の場合1日に2時間ほどの空き時間があった。しかし小学校の場合には1週間で2〜3時間の空きしかない。今まで空いている時間に他の学級授業をしなければいけないというのは負担が増えることになる

 

教科の教員が揃わない

 女性というだけで家庭科の専科になっている場合もある。小さな学校では全ての教科を高学年の教員で揃えることは無理である。そうなれば授業の質が上がることは期待できない。

 

次の年度はどの教科をもつのかわからない

 中学校のように教科で免許が決まっているわけではない。他の学校に異動すればその学校の事情によりどの教科をもつかわからない。自分も1度自分の担任している学級で家庭科を教えたことがある。その時は妻に聞きながら授業の準備をしたが、その年以外担当していない。

 

学級でのトラブルへの対応

 小学校でも喧嘩などのトラブルがある。その時に指導にあたるのが担任である。必要なら授業を変えて、指導することもある。しかし次に他の学級の授業があるなら指導は後まわしになってしまわないだろうか。

 

 教科担任制について、心配なことを書いてきた。そのような制度の変更ではなく、教員の数を増やすこと。このことが最優先ではないだろうか。1番の問題は学校が振り回されてしまうことである。