「子どものために」で仕事が増える。

「子どものために」で仕事が増える。

 

 私が教員になった40年前は、ほぼ6時には学校を出ることができた。教員の仕事の本質である「教える」ということは変わっていない。ではどうして、ここまでブラックになってしまったのだろうか。一つに「子どものために」という言葉でどんどん仕事が増えてしまった。特に行事の関係が顕著である。

 

善良な教員が仕事を増やす

 子供のことを考え、どうしたら良いか、そのための準備をすることも逆に教員のブラック化を進めている。優先順位をつけることが得意ではないこと、結果よりも過程を大切にすることなど、時間ばかり掛かって成果がなかなか出ない。

 

時間の概念がない教員

 ずっと残業手当のない世界で仕事をしてきた。一般企業だったら、それだけの手当を払うことができないために、仕事の効率化や精選が行われてこなかった。時間当たりの賃金で言えば決して優遇されているわけではない。

 

学級掲示はなんのため

 掲示物の用意も時間がかかる。後ろの壁や廊下の壁に子供の作品を貼れば、子供たちは喜ぶ。しかし、作品に名前を貼り、名前の横に朱書き(作品に対するコメント)を書き入れ後ろの壁に作品を画鋲で止めていく。それも風で飛ばされないように、4点で止める。これだけで簡単に2時間ほどかかる。

 

教員の仕事?

 プールが始まる。このプールに消毒液を入れたり、危険はないか見回割ったりするのはプール担当の教員である。

 理科の実験の準備をするのも教員。前日に実験で必要な器具や薬品を用意しておく。原液を子どもたちが使えるくらいに薄めておく。ジャガイモを植えるために学級園を耕して畝を作っておくのも担任で対応。会議があれば、勤務時間後ということになる。これでは、事前に実験をするというのは無理。当然片付けも教員。

 

教育アシスタントはいるけれど。

 教育アシスタントも増えてきた。しかし、現状では特別な支援が必要な子どもについていることが多い。これでは教員の負担は全く減らない。実験の準備や会計の処理などやってもらえばかなり楽になる。夏休みまで1ヶ月を切った。これから、懇談会、成績処理、会計報告などが休みに入るまで続く。学年通信なども作ろうと思えば授業後の時間がなくなってしまう。

 もっと授業に直接関係のないことを切り離すことはできないのだろうか。

 

 

教職敬遠され3

教職敬遠され3

 

 Twitterで「教師のバトン」にはどのようなコメントがあるのか見てみた。教員の過酷な勤務状況が多くの教員から発せられていた。しかし、ここまでブラックになるのは、教員の資質によるところもあるのではないだろうか。(悪い意味で言っているのではない)

 教員になるような人は、子供の頃は児童会の役員や学級代表になり、いろいろなことに真面目に取り組んできた人だと思う。ある意味成果よりも過程(頑張り)を大切に思ってきたのではないだろうか。

 

みんなが帰らないと自分も帰れない

 学年主任が帰らなければ自分も帰ることができない。本来なら効率的に仕事を片付けて早く帰りたいと思っているのだが、他の教員が残って仕事をしていると帰ることができない。また保護者からの要望にはNoと言わない。中学校に勤めていたときには7月の大会前になると、教員の方から校長にお願いして職員会議を6時からにしてもらうこともあった。今から考えれば全くおかしな話である。

 

どこまでが学校の守備範囲?

 小学校に勤めていたとき、学校に用事があり日曜日の午後5時に電話したことがある。誰もいないだろうと思って電話したのに、教員の一人が電話に出てくれた。出てくれたことよりも大丈夫なのかと言う思いになった。

 また、日曜日に家で休んでいると「子供が万引きしたので学校に来て欲しい」と言う連絡が入った。店の方も保護者に電話をする前に学校に連絡してくることが多い。本来なら学校ではなく保護者か警察に連絡するのが筋だとは思うのだが。

 学校に行き、学年で対応を検討する。家庭への連絡だけでなく、生徒指導の教員、教頭、校長に連絡を入れたりする。そして万引きのあった店舗に行き、話を聞き子供を引き取ってくる。さらに、一緒に万引きをした子供がいるとなれば、日曜日の午後でもその子供たちを学校に呼び、指導を行う。

 保護者が子供と一緒になって、万引きをした店に行って謝ってくれると、その子は2度と万引きなどしないと思いながら家に帰る。時には9時過ぎることも。(当然無給)そして月曜日には普通に勤務が始まる。

 

 このような対応に対して、何も考えていなかった。そういった教員が残っているのだからブラック化は無くならないのだろう。

 

教職敬遠され2

教職敬遠され2

 

「教師のバトン」というものがある。教員の良いところを伝えて、教職希望を増やそうという試みだったようだ。しかし、逆に教員のブラックな面がクローズアップされて、逆に志望者の数を減らしているという皮肉な結果になっている。

 

原点に立って考える

 なぜ教員になろうと思ったのか。40年前には給料とか勤務時間ということは考えなかった。一番心に残っていたのは、担任や教科の学習を教えてもらった先生たちである。「あの先生たちのようになりたい」というのが志望動機だった。

 

いい授業がしたい

 これは、どの教員も同じ気持ちだろう。その気持ちがあっても雑事に時間を取られてしまう。このことがストレスにつながる。免許更新制度も教員のニーズに合わせて研修の機会を与えてくれると言うなら意味がある。明日の授業に直結する内容だったらこれほど批判は出ない。

 

勤務時間だけが問題か?

 勤務時間が長いのは、今日に始まったわけではない。小学校勤務の時はそれ程でもなかったが、中学校に行けば10時を過ぎることや日曜日の午後しか休めないことも当たり前のことだった。行政が考える働き方改革と教員が求めている働き方とはずれている。仕事を時間で計ることは教員としてはそぐわない。

 新年度になると教科書が業者から運ばれてくる。入学式までにその送られてきた教科書の数を数え、それぞれの学級に分ける。さらに教育委員会に送られてきた教科書の数を報告する。さらに年度途中で転校があれば、どのような教科書を使っていたのか相手の学校に送らなければならない。この仕事を授業の合間を縫って教員が行うのである。

 

では、どうしたら良いのか

 私見を述べさせてもらう。とにかく仕事の整理をすること。教員でなければならない仕事なのか、教員でなくてもいい仕事なのか。先ほど述べた教科書事務などは教員がやる必要はない。その他欠席の統計や給食費の集金などは教員にとってストレスである。これらの仕事は教員免許の必要ないので、やってもらえるとかなりストレスがなくなる。

教職敬遠され

教職敬遠され

 

 今日(6/25)の朝日新聞に「教職敬遠され」という記事が載っていた。教員として40年勤めてきた自分としたはいかにピント外れなことをやっているのか、全くわかっていない。例えば「一次試験を免除」しても、教職に魅力がなければ採用試験を受けようとする若者は増えない。

 

教育委員会の問題

 一つ目は、教育委員会の問題。教育委員会には教育長や指導主事という人たちがいる。教育長は元校長の場合が多い。指導主事は学校を一時離れて勤めている。これらの人たちは、滅私奉公で教員を勤めていた人たち。働き改革と言いながら、教員をしていたときには部活動も正月三が日しか休まなかったと豪語する。ブラックも根性で乗り越えることができると真剣に考えている。そのために真の教育改革は難しい。

 

本当は教員になりたい

 子供が好き(変な意味ではなく)教えることが好き。という人はかなりいるはず。そのために条件さえあれば、教員になりたいと思う人は一定数いるはず。特に大学でわざわざ教職を取っている人たちや教育学部を出た人がなぜ教員を目指さないのか。この点を明らかにする必要がある。(教育実習を行うためには採用試験の受験が条件だったと思うのだが)

 

給料や残業手当が問題ではない

 給料は安いよりは高い方が良い。しかし、時給を多少上げたくらいでは教職の希望者は増えない。自分が教職についたのはバブルの真っ盛り。世間ではかなり景気の良い話をしていた。しかし、他の業種を選ぼうとは思わなかった。

 

何が問題なのか

 教員のやりがいをどのように高めていくのかということではないだろうか。遅くまで仕事をしていたのは、最近始まったことではない。部活動の指導もそれなりに行ってきた。辛いと思った。しかし、試合に勝ち子供たちが喜んでいる姿を見れば、疲れなどなくなってしまい、来年はどのような練習を行うのか考えていた。

 

では、どうしたら良いのか考えていきたい。

 

コロナ禍の中で

コロナ禍の中で

 

 コロナ禍の中でリバウンドが心配されているが、学校の状況はかなりコロナ禍以前の状態に戻ってきた。

 昨年度は、着替えで3密になるということからプール指導は行われなかった。しかし、今年度は着替えを行う場所を工夫したり、入る教室や人数を制限したりして行うことができるようになった。7月に入ると暑くなってきて体育の授業はプール以外出来ない。

 

コロナより熱中症

 授業も普通に行われるようになった。この時期になるとコロナよりも熱中症の方が心配になる。そのため体育の授業では十分に間隔が取れるときにはマスクを外すように指導する。

 

マスクについて

 子供たちはほぼ100%マスクをつけている。特に「鬼滅の刃」模様のマスクを着けている子供が目立つ。使い捨てのマスクを着けている子供は少ない。しかし、かなりの割合で花が出てしまっている。また、子供と子供との距離はほとんどない。ソーシャルディスタンスという概念は小学校にはない。子供の中には教員にもかなり近づいてくる。「ソーシャルディスタンスだよ」とは言うがそれ以上強くは言わない。

 

感染拡大の心配

先日職員室には前の席の先生との間に透明なパーテーションが入った。給食の時にはマスクを外すし、子供のことを話すことも多い。パーテーションが使われるようになって罪悪感なしに話をすることができるようになった。

 しかし、教室にはない。この中で担任をしている教員は給食を食べなければならない。食事中はしゃべらないように指導はしている。しかしパーテーションもない。飲食店よりも感染の心配がある。今度の変異株は若い人たちでも感染の危険があると言うことだったので心配になる。

 

 緊急事態宣言が解除され、オリンピックも予定通り行われるとのこと。しかし、気持ちの上では完全にタガが外れてしまっている。ワクチン接種との競走のような気にもなる。完全に今までと同じことはできないのだろう。

 

 

教員の常識は世間の非常識

教員の常識は世間の非常識

 

 数年前に子どもが市役所に就職した。改めて教員の仕事が世間の常識といかにずれているのか考えさせられた。よく教員の常識は世間の非常識と言われてきた。実際に職員室にいると気が付かないことが多かった。今はSNSなどの情報により、世間の様子が分かるようになり、改めて教員の世界がいかに常識外れなのか考えさせられるようになった。

 とにかく自腹で購入することが多い。

 

パソコン

 今でこそ職員室のパソコンは1人一台用意されるようになった。10年ほど前には学校用には教員30人程で2台しかなかった。そのため、家から自分のパソコンを持ってきて自分の席で文書を作り、USB に保存後共用のパソコンで印刷していた。自分のパソコンなので、当然自腹。5年で買い替えるとするとその度にソフトも入れると10万ほどの出費になる。まだ一太郎で文書を作る必要があったので、別に購入する必要があった。

 指導案などの文書は家庭で自分のパソコンを使って作成することが普通だったし、当然のことと考えていた。

 

文房具

 教員として必需品の一つに赤ペンがある。学校以外ではまず使うことはない。しかしこれも用意されてはいるが、気に入ったものは自腹で買うしかない。

 

教育書

 教員にとって読書することはとても大切であると言われている。そのために本を買う。授業研究などに当たると本屋で3冊ほど購入することもあった。しかし、これも自腹。その頃には必要なものを自腹で買うということに迷いはなかった。読書するのが教員の資質の一つとも考えていた。

 これも独身のうちは良かったが、結婚してからは必要な本に限定するようになった。

 

教員のブラック化も含めて、今まで当然のことと思われていた。残業代がつかないことも当然であると考えながら12時近くまで働いていたこともある。何とか普通の企業並とは言わないが、安心して仕事ができる環境を作って欲しい

父の日、母の日、作品展

父の日、母の日、作品展

 わたしの勤めている地区には「母の日作品展」というものがある。一企業が行っているのだが、問題は作品の募集が学校や保育園に任されていること。入学式が終わると学校にその企業から作品用の紙と参加賞が届く。

 そのために一企業の作品展のためにほぼ全員に作品を作らせる。

 問題なのは、家庭や子供の実情に合わないことである。そのために不幸になる人が出ることはなんとかならないのだろうか。

 

父子家庭は

 一番の問題点はお母さんのいない子どもへの対応である。募集規定には「家族でもいい」とはなっている。しかし、お母さんの絵を描いている中でその子だけ「おばあさんやお父さんの絵を描かせることになる。担任としても心苦しい。どのような思いで描いているのかと思うと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。

 

特別支援学級の子供は

 特別な理由がない限り全員が出している。その中には特別支援の子供も含まれている。小学生なのにグリグリと丸が描かれているだけの作品もある。学校名、学年、名前も書かれているので誰が支援学級なのか分かってしまう。支援学級の担任をしていたときには保護者と相談した上で出さなかったこともある。

 

学校(教員)の仕事?

 自分の娘が小学生のころから行われていたので、20年ほどになるだろう。その商業施設には子供の作品で一杯になる。問題なのは学校の授業として取り組ませること。作品の取りまとめも学校の仕事である。流石にその業者の人が集めには来るが。

 結局は一企業の金儲けでしかない。母の日に合わせて作品展を開くことで子どもやその保護者に来てもらい「母の日のプレゼント」などを買うことでお金を落としてもらうために学校が協力していることになる。

 

 誰か、反対と言うことはできないのだろうか。