愛がなくなって毒になった

体罰について考える

まず断っておく「体罰は絶対にだめ」ということである。どのような理由があっても容認できないことである。

「しつけのために子どもに体罰をすることについて、約4割の大人が容認していることが、公益社団法人セーブ・ザ・チルドレン・ジャパンの調査でわかった。」

この記事が朝日新聞に載っていた。この体罰、特に学校で行われる体罰について考えてみる。

また、学校で行われる体罰というのは教員の指導の未熟さを表している。子供になぜ今やったことが悪いことなのか納得させ、子供の行動を変えることができれば体罰など必要はない。それができないために体罰に頼ってしまうのである。また恐怖を植え付けることで従わせようとする。本来何のために指導を行うのか。それはより良い人間になってほしいと思うからである。なら体罰を行うことで、より良い人間になることができるだろうか。(時代劇なら水戸黄門桃太郎侍に成敗されている悪代官、アニメで言えば完全に悪役である)

「愛の鞭」などという言葉が聞かれなくなってかなり時間が経った。昔は「愛の鞭」と称して体罰が容認されていた。今は「毒親」という言葉が使われている。体罰から「愛」がなくなり「毒」になってしまった。「愛」は相手を思う気持ちがあるが、「毒」になれば相手を殺すことが目的となってしまう。

次の3点から体罰の許されないこと説明する。

遺伝する

 言葉で納得させるのではなく体罰で問題を解決しよう、自分のいう通りにさせようとする。体罰を受ける子供は、問題が生じたときに体罰、暴力で解決しようとする。自分の考えを論理的に伝えることができないのだから、当然力で言うことをきかせようとする。他人が我が子に「しつけ」と称して行ったら、親は許すだろうか。私ならどのような理由でも許すことはないだろう。

心の中まで従わせることはできない

 もし、自分が理不尽に叩かれたらどのように感じるだろうか。決して許さないと思うだろう。反感だけが残る。家庭や学校で体罰が行われるのは、そこに絶対的な上下関係があるからである。しかし、この上下関係はいつまでも続くわけではない。年が経つにつれて、体罰を受けていた子供は力をつけ親や教師は衰えていく。

心の傷になる。

 体罰を受けることで、体の傷だけでなく心にも傷を負わせることになる。さらに毒親による体罰は継続してしまう。エスカレートして止まらなくなってしまう。私も中学生の時に理科の時間鉛筆で友達と遊んでいて、教員から殴られたことがある。殴られたことは、自分に非があったと納得できている。しかし、45年ほど前のことなのに、今でも覚えている。

 日本にはまだ体罰を容認する人が多い。これもその人が小さかった時に体罰を受けたということかもしれない。学校から体罰をなくして行くことが必要である。