ブラック校則について1

ブラック校則について1

なぜ学校にはブラック校則と言われる校則ができてしまったのか教員の立場から考えてみたい。

 

教員の世間知らず

中学校に勤めていたとき、髪型について男子は丸刈り、女子はボブと決まっていた。子どもたちは買い物のために市外に出るときは帽子が必要だった。流石に時代遅れだと思ったのだろう、生徒会からの申し出があったということで許可をすることになった。合わせて女子も伸ばして良いことになったが、髪の毛を止めるピンの色をどこまで許可するのかで2日間話し合いがあった。

そのことだけで2日間会議を行ったのだから、仕事が終わるわけはない。特別な場合を考えてしまうので本筋から離れてしまうのだろう。例外を認めたくないことは分かるが、真面目に校則を守ろうとする子供にとってはブラックになってしまう。

 

誰も責任を取ろうとしない

 校則を作るときよりも無くすときの方が難しい。例年校則の話し合いは学年末に行われる。その時は、生活指導の教員が中心となって作成する。他の仕事もあり片付け仕事になってしまう。今までと同じなら、議論する必要もない。さらに校則を変更したことでトラブルが発生すれば、変更した人の責任になってしまう。(本来なら最終的に認めた校長の責任なのだが)変更しなければ、表立ったトラブルは生じない。一度作られた校則が子供の実態に則していない理由の一つである。

 

子供や保護者を信じていない

教員はいろいろな子供や保護者と接してきた。いい思い出もあるが学級崩壊の原因となった子供など思い出したくないこともある。校則を考えるときに百のプラスよりも1つのマイナスが起こらないようにする。マフラー禁止でも1回子供たちが遊んでいて首を絞めたことがトラウマとなっている。だからマフラーは禁止。

 さらに校則にないと指導ができない。

 

ここまで校則について考えてきた。教員の中にも校則に対して「おかしい」と思っている人は多い。しかし、「学校が荒れたら責任が取れるのか」と聞かれれば、黙るしかない。体罰も同じ。

 

 校則については、まだまだ闇が深い。また取り上げたい。

限界-学校におけるコロナ感染対策について-

限界-学校におけるコロナ感染対策について-

 

 学校における感染症対策は十分とは言えない。今まで子供への感染が少なかったことから今まで問題にならなかったが、変異種については若年層への感染力も強いとのこと。限界に近づいている。

 手洗いの徹底とは言うが子どもたちは休み時間になれば、走り回っている。アルコールもいたるところに置かれているが、子どもたちが提出してきた宿題のノートを一つ一つ消毒することは不可能である。

 

マスクについて

 学校では教員、子どもすべてマスクを着用している。しかし、1年生の子供の中には鼻が出てしまっている子どもも多い。そのたびに注意はしているのだが、なかなか徹底させることが難しい。

 

給食

コロナ前の給食は友達と話ができる時間だった。外国人の担当の先生がクラスに入って一緒に食べることもあった。しかし、今では全員前を向いて食べることになっている。しかし、1クラスに40人近くの子供がいる。窓は開けているが一人がくしゃみをすれば飛沫が飛んでしまう。

 配膳も子供たちが行う。手洗いも徹底させているが100%完全とは言えない。

 

一番心配なのが家庭での感染が学校で広がることである。今まで対策はしてきたが、多数の子供が登校して来る状況では十分とは言えないだろう。実際に感染者が登校してクラスターの発生源となればひとたまりもない。

 毎日健康チェックを行い、体温を測定して学校に提出もしてもらっている。それでも忘れてくる子供もいる。

 さらに休ませることができなければ熱があっても登校させるだろう。また、コロナに感染したという風評被害もこれから問題となってくる。

 

 学校をクラスターの発生源にしないためには、学校にコロナウイルスが入らないように家庭での感染を防ぐこと。そのためにも今が頑張りどころ、我慢のしどころではないだろうか。

 

教員免許更新制度について

教員免許更新制度について

 朝日新聞によると教員免許の更新を怠ったために免許が失効してしまったという記事があった。わたしも1度免許更新を行った。2度目は65歳、どうするのか他の先生の話を聞いているところ。

 わたしが受講したのはe-ラーニング。パソコンで講義を受け最後に一度だけ地元の大学に行き試験を受けるというものだった。講義内容としてはパワーポイントの使い方や環境問題など興味のある物もあったが3万の出費は痛い。対面で行われる講座なら交通費まで必要になる。近くの市では教育委員会が講座を開いていたところもあるらしいが。

 私が勤めていた学校では夏休みの間は職員室でも講習を受けることができた。しかし学校によっては個人的なことなので勤務時間中は講習を受けることができなかった学校もある。

 

免許更新制度について2つの面から考えてみたい

人材難に拍車をかけている

 教員採用試験の倍率が2倍を切ったという記事があった。学校は常に人が足りない。そのため音楽や家庭科など本来なら担任以外の先生が配置されるのに、それができない。病気で休む先生がいても、その補充ができずいろいろな先生が授業受け持つことになる。

私の妻の場合は教員をしていたが結婚して一度家に入った。子育てが一段落したときに病気になった教員の補充に来てくれないかという話があった。免許更新制度がなかったので引き受けることができた。しかし今だったら免許が失効しているので断るしかなかっただろう。

教員免許をもっていた人の職場復帰を困難にしている。

 

教員の力量向上につながらない

 講座の内容もカルチャースクールならいいかもしれないが、実際に授業で役立つものはほとんどない。受講すれば知識は広がるかもしれないが、優先順位は低いものばかり。単位を取るだけなので、パソコンの使い方など知っている内容を選ぶことも多い。まだ「鬼滅の刃」でも読んでいる方が余程授業の役に立つ。

 目の前にいる子供たちのために役立つ内容がないというのは、ただでさえ多忙と言われている教員の多忙化に更に拍車をかけている。

 

 この免許更新制度が教員のためになっていないということは、その被害を子供を持つ全ての国民が被っているということを考えてほしい。

 

 教員免許の失効については教育委員会の責任である。免許取得や年齢のデータは教育委員会にあるはず。

 

「子どもの心・尊厳を傷つける精神的暴力をいかに止めるか 「叱る教育」は必要ない」について

「子どもの心・尊厳を傷つける精神的暴力をいかに止めるか 「叱る教育」は必要ない」について

 

 ヤフーニュースでこのような記事があった。自分も60歳を過ぎてこのような「叱る教育」は必要ないと思えるようになった。しかし、若い頃は叱ることで子どもを従わせていた。「叱ること」=「指導」と思っていた。

 この記事の欠点は教員の立場での意見が全く書かれていないということである。そのために、なぜ教員が「子供の心や尊厳を傷つけるような指導を行うのか」という根本的な問題が解決できない。さらに解決方法も示されていない。

 

どうやって指導すればよいのか分からない。

 教員をやるような人間は尊厳を傷つけられるほどの叱責は受けていない。どちらかというと素直に教員の言うことに従ってきた人が多い。だから、指導に従わない子どもの心など分かるわけがない。そのため

どのように指導してよいのか分からない。

 ↓

子どもが従わない。

 ↓

見せしめ、脅すなどの方法で子どもを従わせる。(20年ほど前には体罰が加わっていた)

 

 体罰が禁止されて、出てきたのが連帯責任。「〇〇君が悪いことをしたので、お楽しみ会はやめます」などは教員がよくやる方法。この結果「〇〇君がいなければいいのに」ということになり「いじめ」が発生する。これは教員がいじめを認めているようなもの。

 

叱ることで認められる社会

 叱らないで教室が荒れていたら、しどうができていないと言われてしまう。授業中うるさければ叱って静かにさせるしかない。(授業がうるさいのは子供に責任があるという考え方がはびこっている)また、年上の教員が叱っていれば、叱るしかない。残念ながら教員の世界というのはそんなものである。

 

指導の方法が確立していない

 教員の個人技によるところが大きい。どうやって指導するのか、個々の状況で違うことは分かるが適切な方法が分からない。問題行動を起こせば何らかのペナルティーは必要だと思う。

 私は教えてほしい。中学生がたばこを吸っていた。この中学生にどのように指導をすればタバコをやめさせることができるのか。解決方法も示さずに批判するのは「卑怯」以外何かあるだろうか。

 

 数年前にアメリカの映画の中に主人公の少年が悪いことをして叱られる場面があった。担任は校長のところへ行くように言い、その子を校長が指導していた。これなら感情的にならず「指導死」は防ぐことができるように思った。「指導死」についてはまた考えたい。

 

 映画はクリントイーストウッド監督の「15時17分パリ行き」という映画だった。

 

パソコンで日記を書くことについて

パソコンで日記を書くことについて

 自分の毎日のルーティンの一つにパソコンで日記を書くことがある。ワードを使っている。日記アプリのようなものは使っていない。就職してから日記を書くようになった。書き始めたときには紙の日記帳だった。3年連用の暑さが2センチほどある日記帳を使っていたこともあるが、途中で書かない日が続いてしまうと、結局書かなくなってしまう。毎年3年連用の日記帳を買っていた時期が数年続いた。

 異動を機に金銭的に厳しいこともあり、パソコンで日記をつけていくことにした。以来25年続けることができた。

紙の日記帳と比べパソコンでつけることのプラス点は

1どこでも書くことかできること

 紙の日記帳は、他の人に見られることを考えると外に持ち出したくない。また、筆記用具も揃えないと字の色や太さが変わってしまう。妻や子供たちの前で日記帳を広げて書くのも憚られる。そのために家に帰って家族が寝てから書くことになる。

 逆にパソコンなら職場でも日記を書くことできる。フロッピー(古い!)やUSBに入れれば家に持ち帰ることもできる。パソコンで日記を書いていても、仕事をしているように見える。

 今はiPadを使えば、どこでも入力できる。

 

逆に紙で書くことのマイナス点は

1アプリ(ワープロソフト)が変わると読み込みに手間がかかる。

 日記を書き始めた25年前にはワードよりも一太郎が一般的だった。そのために数年は一太郎で書いていた。しかし、一太郎のプリインストールのパソコンは無くなった。学校関係の書類もほとんどワードに変わってしまった。日記もワードで書くようになった。一太郎で書いた日記を見ようとすると一太郎ビュワーを使わなければならない。Windows版はあるがマックOSでは出ていない。

 しかし、日記ソフトやアプリで書かなくて良かったと思う。同じソフトが20年以上あるとは限らない。

 

2一覧性がない。

 1ヶ月くらい前までは、何があったのか見直すことができる。しかし、1年以上前になると探し出すのにも手間がかかる。10年以上昔の日記はほとんど見ていない。普通の日記なら表紙を見ればいつのことなのかそれほど手間もかからないだろう。

 

 退職を機に紙の日記に変えようかと思ったり、パソコンで作るなら写真を入れようかと思ったりした。しかし、20年以上同じフォーマットで続けていると変更しても長続きしない。結局元に戻ってしまった。

 

 

 

お手伝いの効用-賢い子供にするために-

お手伝いの効用-賢い子供にするために-

 賢い子供を育てるために、塾や家庭教師に頼らないで保護者にできることを考えてみましょう。大事なことは子供たちが知恵を働かせる場面としてのお手伝いということです。

 お手伝いをさせるのは簡単ではないのです。本来子供はお手伝い好きなのです。しかし、なぜ、やろうとしないのでしょうか。子どもがせっかく頑張ったお手伝いなのに、保護者の方が文句を言ったり、やり直したりしていないでしょうか。お手伝いできたことをきちんとほめているでしょうか。何のためにお手伝いさせるのでしょうか。お手伝いを通して考える力を育てること大切です。保護者の方が「楽をしたいからお手伝いさせるのであれば、こどもだって楽をしたいはずです」か、考えているでしょうか。

 お手伝いは、その子なりに工夫しています。ほめてもらえるために一生懸命に頑張っています。

 

1結果に文句を言わない。

子どものお手伝いは、大人がやるよりも「時間がかかる」「片づけができていない」「上手にできない」などの問題があります。しかし、目の前でやり直したり、もっと上手にできるように注意したりすれば一度にやる気がなくなってしまいます。最初は保護者の方が見本を見せたり、一緒にやったりすることが必要です。

 

2お礼はハグ

 お手伝いのお礼はお金では買えないものがいいと思います。中には金銭教育の一環として労働に対する対価としてお金や品物を与えているという家庭もあります。どちらが正解ということは言えないのですが、お金をくれなければやらないというにもどうかと思います。

 

3工夫する余地を残す

 食器を洗ったら、乾かす所まで子供にやらせましょう。食器を乾かすのに並べたり、順番に食器戸棚にしまったりと、子どもの工夫を生かすことができる場を作ってみてください。

 

 お手伝いは素晴らしい作文の種になります。家族の働きを知ることができます。社会とつながることができます。自由研究のきっかけになることも。庭の花に水をやれば、季節の変化に気が付きます。

 

 

小1の壁 学習について

小1の壁 学習について

 

教科書をよく見て

  保育園と小学校の違いは、授業が行われることである。学習する内容はどこの小学校でも同じである。国語や算数の教科書は何種類かあるが学習内容は文部科学省によって決められている。

子供が教科書をもらってきたら、名前を書くとともにどのようなことが書かれているのか見てほしい。国語の教科書にはしばらく文字が出てこない。これで2時間ほど授業をしなければいけない。技量が試されるところ。

 

字の書き方、計算の仕方

教科書を見て文字の書き方をよく見てほしい。保護者の中には教科書の書き方と違う書き方をしている方がよくいる。数字なら「5」とか「7」、カタカナの「ヒ」などで間違えることが多い。ひらがなや1年生で学習するひらがなは書く順序まできちんと指導してほしい。書き順など中学生になればほとんど問題にしない。保護者の方はそれ程書き順に拘る必要はないと思われるだろう。しかし、多くの教員が書き順や字の形に拘って指導している。とめ、ハネ、はらいも同様。保護者の方に教えてもらって、テストで自信を持って書いたらバツになったということでは、子供がかわいそうである。

計算についてもやり方がある。13―5のようなくり下がりのある引き算は、計算の仕方が2通りある。子供が混乱しないように教科書がどちらのやり方で教えているのか見て、それから教えてほしい。

 

我流は混乱の元

社会生活では、パソコンもあり字を書かなければいけない場面はそれほどないし、そこまで気を遣う必要はないだろう。鉛筆の持ち方も個性の一つなのかもしれないし、字の書き方もその人柄を表している。(自分は気になって仕方がないが、黙っていることにする。箸の持ち方も同じで、いくら芸能人がうんちくを垂れていても、食事の場面で箸の持ち方がおかしければげんなりである)

日芸能人とアナウンサーが自分たちの結婚の報告を自筆のファックスでメディアに送ってきていた。MCは個性的な字と言っていただけだが、まず書写の時間だったらかなり書き直しを何度もさせられていただろう。